ドナルド・キーン ごあいさつ

柏崎に、ドナルド・キーン・センター柏崎という名称の日本研究センターができたことは、日本文化を国外と国内でよりよく理解されることを願って、これまでの人生を送ってきたわたし私にとって、もちろん勿論非常に嬉しい出来事です。その上、この研究センターに私の名前がついていることは言葉で表現できない悦びです。海外の日本研究は私から始まったものではありません。先輩に、特にアーサ・ウエーリという天才的な学者がいて、ウエーリの『源氏物語』の英訳を読んで私は初めて世の中に日本文学があることを知り、その素晴らしさに感激しました。しかし、私が日本語を勉強し始めた、今から七十二年前にウエーリの翻訳を知っていた欧米人は少数であって、文学を専攻する大学生は世界の文学を論じる場合、日本文学を無視するか、二三の俳句を引用する程度でした。

変化が起こったのは太平洋戦争でした。私は反戦主義者で、戦争を徹底的に嫌いましたが、戦争という悪行にも人間のためになることがあります。日米戦争が始まった時、陸海軍が日本語のできるアメリカ人は極めて少ないことに気付いて、あわてて日本語学校を設立して、一流大学の最もすぐ優れた学生―特に或る外国語を習得した学生―を選んで集中的に日本語を教えました。全部で二千人位の若者が日本語を覚え、戦時中日本軍が戦場に残した書類や日本の捕虜の尋問をするようになりました。戦争が終わってから、日本語学校を卒業した人達の大多数は戦前に希望していた職業に就きましたが、そういう人達も日本に関心が深く、日本人が好きでした。日本と戦争していたにも関わらず日本語を覚えた若い人達に敵愾心はありませんでした。

一方もとの学生の一割位は日本語を忘れないで、なにかの形で日本と関係のある仕事を見つけました。私はその一人でした。コロンビア大学で、角田柳作先生の許で古典文学と思想史を勉強しました。他は日本の美術、近代史、経済、政治などの研究に力を入れました。かれらは海外の日本研究の最初の世代でした。現在孫弟子が活躍しています。

戦前、日本語を教えるアメリカの大学は六、七しかなく、多くは二世の多い太平洋に近い大学でしたが、現在は殆どの評判のいい大学では日本語を教えています。もう珍しい外国語でなくなりました。アメリカだけではありません。戦前ヨーロッパで日本語を教える大学は四、五しかありませんでしたが、現在各国で人気のある外国語です。

ドナルド・キーン・センター柏崎は一人の名前の冠を持っていますが、海外で一生懸命に日本の研究をし、日本への道を切り開いた全ての人達と一緒にこの喜びを分かち合いたいと思います。

ドナルド・キーン